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【豊臣兄弟!】長宗我部元親のその後は?秀吉への降伏から晩年・最期まで史実を解説

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、[Alexandros]の磯部寛之さんが演じる長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)。

四国を舞台に勢力を拡大し、豊臣秀吉や豊臣秀長と対峙する元親が、ドラマの中でどのような運命をたどるのか注目されています。

では、史実の長宗我部元親は、その後どうなったのでしょうか。

この記事では、長宗我部元親が秀吉に降伏するまでの経緯から、降伏後の領地、嫡男・信親の死、晩年、そして最期までを史実をもとにわかりやすく解説します。

※この記事では、史実として確認されている出来事と、ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる内容を区別して紹介します。

引用:Instagramより

長宗我部元親は秀吉に降伏した

長宗我部元親の「その後」を知るうえで重要なのが、豊臣秀吉による四国征伐です。

元親は土佐を拠点に勢力を広げ、天正13年(1585年)には四国の大部分を平定するまで勢力を拡大しました。

しかし、その直後に豊臣秀吉による四国征伐を受けることになります。

秀吉は豊臣秀長を総大将として四国へ大軍を派遣し、長宗我部氏を攻めました。

元親は最終的に秀吉に降伏し、土佐一国の領有を認められることになります。

つまり、四国の大部分を支配するまでになった元親でしたが、秀吉への降伏によってその勢力は大きく縮小しました。

それでも長宗我部家そのものが滅ぼされたわけではありません。

元親はその後も土佐一国を治める大名として生き残り、豊臣政権のもとで活動することになります。

なぜ長宗我部元親は秀吉に降伏したのか?

元親が秀吉に降伏することになった背景には、豊臣政権との圧倒的な勢力差がありました。

秀吉は畿内を中心に強大な勢力を築き、四国征伐では豊臣秀長を総大将として大軍を送り込みました。

一方、長宗我部氏は四国で大きな勢力を築いていたものの、豊臣政権と長期間にわたって正面から戦い続けることは容易ではありませんでした。

最終的に元親は秀吉に降伏し、土佐一国を領する大名として存続する道を選ぶことになります。

これは、元親の人生における大きな転換点でした。

それまでの元親は四国の大部分を支配するまで勢力を拡大していましたが、ここからは豊臣政権のもとで活動する立場へと変わっていきます。

降伏後の長宗我部元親はどうなった?

秀吉への降伏後、元親は土佐一国を治める大名として活動を続けました。

秀吉に敗れたことで、元親がそのまま歴史から姿を消したわけではありません。

むしろ降伏後の元親は、豊臣政権による天下統一の動きに組み込まれていくことになります。

その後、元親は豊臣秀吉の命を受けて各地の戦いに参加しました。

高知市の資料によると、元親は小田原征伐や文禄・慶長の役にも参加しています。

かつて秀吉と対立した元親が、降伏後には豊臣政権の一員として戦うことになった点は、元親の生涯を考えるうえで重要です。

九州征伐の最中、嫡男・長宗我部信親を失う

元親の晩年を考えるうえで、非常に重要な出来事が嫡男・長宗我部信親の死です。

天正14年(1586年)、元親は秀吉の命を受け、豊後へ出陣しました。

この戦いは豊臣方による九州征伐の一環でした。

そして同年、戸次川の戦いで長宗我部軍を含む豊臣方の軍勢は島津軍と戦うことになります。

この戦いで、元親の長男・信親が戦死しました。

信親は元親が後継者として大きな期待を寄せていた人物でした。

そのため、信親の死は長宗我部家にとって非常に大きな出来事となります。

元親自身もこの戦いで危機に陥りましたが、土佐へ帰国することができました。

信親の死によって後継者問題が起きる

信親の死後、長宗我部家では後継者をめぐる問題が生じました。

元親はその後も領国経営を進めましたが、家督をめぐる問題は長宗我部家に大きな影響を与えることになります。

元親は最終的に四男の長宗我部盛親を後継者としました。

高知市の資料でも、信親の死後に継嗣問題が生じたことが説明されています。

また、元親は領国経営にも力を入れ、検地を進めたり、法令を整備したりしました。

居城についても岡豊から大高坂、さらに浦戸へと移しています。

1588年に元親が亡くなったわけではない

ここは長宗我部元親の生涯を調べる際に、特に注意したいポイントです。

元親の没年は1588年ではありません。

元親が亡くなったのは、慶長4年(1599年)5月19日です。

高知市の公式資料によれば、元親は1599年4月ごろに病気療養のため盛親を伴って上洛し、伏見の屋敷に入りました。

4月23日には豊臣秀頼に謁見していますが、その後病状が悪化し、5月19日に61歳で亡くなりました。

したがって、

1588年=元親の死

ではありません。

元親の没年は、

1599年

と覚えておくとよいでしょう。

長宗我部元親は小田原征伐や朝鮮出兵にも参加した

秀吉への降伏後、元親は豊臣政権のもとで活動を続けました。

高知市の資料では、元親が秀吉の命によって小田原征伐、文禄・慶長の役に参加したことが確認されています。

つまり、元親は1585年の四国征伐で秀吉に降伏したあとも、約14年間にわたって生きています。

その間には、

  • 土佐の領国経営
  • 戸次川の戦い
  • 嫡男・信親の死
  • 後継者問題
  • 小田原征伐
  • 文禄・慶長の役

など、さまざまな出来事がありました。

そのため、長宗我部元親の「その後」を考える場合、秀吉への降伏だけで終わらせず、1599年の最期まで追うことが重要です。

長宗我部元親の晩年と最期

長宗我部元親は、慶長4年(1599年)に亡くなりました。

元親は病気療養のため上洛し、伏見の屋敷で療養していましたが、病状が悪化します。

そして、1599年5月19日、61歳で死去しました。

元親の墓は高知市長浜にあり、高知市の公式資料でも1599年に伏見で亡くなったことが紹介されています。

また、元親の死後、長宗我部家の家督は四男の盛親が継ぐことになります。

元親の死からわずか1年後には関ヶ原の戦いが起こり、長宗我部家もその後、大きな歴史の転換点を迎えることになります。

長宗我部元親の「その後」を時系列で整理

長宗我部元親の晩年までを時系列で整理すると、次のようになります。

年出来事
1585年豊臣秀吉による四国征伐。元親が降伏し、土佐一国を領することになる
1586年豊臣方として九州方面へ出陣。戸次川の戦いで嫡男・信親が戦死
1588年元親の死ではなく、長宗我部家の後継者問題が動く時期
1590年小田原征伐に参加
1592年以降文禄・慶長の役に参加
1598年豊臣秀吉が死去
1599年元親が伏見で死去。享年61歳

元親の生涯を見ると、1585年の降伏から1599年の死去まで、約14年間にわたって豊臣政権との関係が続いていたことが分かります。

『豊臣兄弟!』では長宗我部元親のその後がどう描かれる?

『豊臣兄弟!』では、[Alexandros]の磯部寛之さんが長宗我部元親を演じています。

磯部さんの出演は2026年3月8日に発表され、大河ドラマへの出演は今回が初めてと報じられています。

ドラマでは、豊臣秀長や秀吉と対峙する長宗我部元親が描かれます。

史実では、元親は秀吉による四国征伐を受けて降伏し、その後は土佐一国を領する大名として豊臣政権のもとで活動しました。

そのため、ドラマを見る際には、

「元親が秀吉とどう対峙するのか」

だけでなく、

「秀吉に降伏したあと、元親と長宗我部家がどうなっていくのか」

にも注目できます。

特に、信親の死や後継者問題、豊臣政権のもとでの戦いなどは、元親の晩年を理解するうえで重要なポイントです。

ただし、ドラマは史実をそのまま映像化するものではありません。

人物の描写や出来事の順番、人物同士の関係などについては、ドラマ独自の演出が加えられる場合があります。

そのため、放送内容については「ドラマで描かれたこと」と「史実として確認できること」を分けて見ることが大切です。

まとめ|長宗我部元親は秀吉に降伏したあと、土佐で生き残った

長宗我部元親の「その後」をまとめると、次のようになります。

  1. 1585年、豊臣秀吉による四国征伐を受けて降伏し、土佐一国を領することになる
  2. 1586年、豊臣方として九州方面へ出陣し、戸次川の戦いで嫡男・信親を失う
  3. その後、後継者問題を抱えながら領国経営を進める
  4. 小田原征伐や文禄・慶長の役にも参加する
  5. 1598年に豊臣秀吉が死去
  6. その翌年の1599年、長宗我部元親が61歳で死去する

つまり、長宗我部元親は秀吉に降伏したあと、すぐに滅亡したわけではありません。

四国の大部分を平定するまで勢力を拡大した戦国大名から、秀吉に降伏して土佐一国を治める大名へと立場を変え、その後も豊臣政権のもとで戦いと領国経営を続けました。

そして、嫡男・信親の死や後継者問題を経験したのち、1599年5月19日に伏見で61歳の生涯を終えました。

『豊臣兄弟!』で長宗我部元親の今後を追う際には、単に「秀吉に負ける武将」として見るのではなく、降伏後も約14年間にわたって生き、豊臣政権のもとで活動した戦国大名として見ると、ドラマの展開もより深く理解できるでしょう。